2012年5月15日火曜日

Gloria al Bravo Pueblo / ベネズエラ共和国国歌「勇敢なる人民に栄光を」


ベネズエラ・ボリバル共和国 (ベネズエラ・ボリバルきょうわこく)、通称ベネズエラは、南アメリカ北部に位置する連邦共和制社会主義国家である。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカス。南米大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。

コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、アルバ、オランダ領アンティル(クラサオなど)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。

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というわけでベネズエラです。
先週スペインで行われたF1世界選手権 第5戦スペインGPにて、ベネズエラ出身のドライバー、パストール・マルドナード(ウィリアムズ・ルノー)が優勝し、F1の表彰台で初めてベネズエラ国歌が流れました。直後に流れたイギリス国歌(コンストラクターであるウィリアムズがイギリスのチームのため)はすぐに分かったんですけどね。

地元スペインのフェルナンド・アロンソ(フェラーリ)を抑え、堂々たる走りでポールポジションから優勝という、2年目のドライバーとは思えないレース運びが印象的でした。
しかし、スポーツカーとしては世界トップクラスのフェラーリのエンジンが、ことF1となると、エンジンだけ取ってみても「速くない」という烙印を押されている事実は寂しいものがありますね。といっても別にフェラーリファンってわけでもないんですが。

2012年4月25日水曜日

Wilhelmus van Nassouwe / オランダ王国国歌「ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ」



ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ(オランダ語:Wilhelmus van Nassouwe)あるいはヴィルヘルムス(Wilhelmus)は、オランダの国歌。旋律は世界の国歌のうちで最も古いといわれる。

題名になっているヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエとは、八十年戦争の指導者で現オランダ王家オラニエ=ナッサウ家の始祖でもあるオラニエ公ウィレム1世のことである。

スペインが派遣したアルバ公の追及を逃れ、ドイツに亡命していたウィレムは、1568年に弟たちと連携してネーデルラント(今日のベネルクス諸国)へ侵攻した。ウィレムらの軍勢は緒戦では勝利したものの、結局はアルバ公に撃退されて再度亡命した。『ヴィルヘルムス』はこのウィレムの2度目の亡命の時期に、ウィレムの腹心シント・アルデホンデ領主フィリップス・ファン・マルニクスが作詞したと伝えられていたが、異説もある。ウィレムが一人称で語る形を取っており、スペインへの反乱の同志を鼓舞し、またドイツの諸侯へのプロパガンダともなっている内容である。
旋律は1569年頃によく歌われていたフランスの従軍歌が元になっていて、最古の楽譜は1574年のものである。『ヴィルヘルムス』は古くから歌い継がれてきたものの、1815年にオランダ王国が成立した際には“Wien Nederlands Bloed”が国歌に選ばれた。しかし『ヴィルヘルムス』の人気が上回り、公式行事で使われることも多くなったため、1932年に正式に国歌に定められた。

歌詞は全部で15番まであるが、それぞれの最初の文字をつなげると“WILLEM VAN NASSOV”(Willem van Nassauの古い綴り)になるというアクロスティックの技法が用いられている。ただし現行の歌詞では綴りが改められている。今日唱われるのは1番と6番のみである。

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正しくはNederland(ネーデルラント)といいます。アイワナゴートゥオランダとか言っても通じないかも。
さらにDutch(ダッチ)という俗称もあり、以前は「ダッチは蔑称だから使っちゃダメ」みたいなことを英語教師かなんかに教わったような記憶があるのですが、決してそういうわけではないようです。まぁダッチワイフとかいう言葉を見るとそうかもと思うよね。

ロイヤル・ダッチ・シェルというオランダとイギリスの世界的企業もあれば、水出しコーヒーのことをダッチコーヒーというし。ただ、ダッチオーブンだけは語源が不明らしいです。

2012年4月21日土曜日

A Portuguesa / ポルトガル共和国国歌「ポルトガルの歌」



ポルトガル共和国

ポルトガルの歌(ポルトガルのうた、ポルトガル語: A Portuguesa)はポルトガルの国歌。作詞はエンリケ・ロペス・デ・メンドンサ (Henrique Lopes de Mendonça) 、作曲はアルフレド・ケイル (Alfredo Keil)。1910年の革命によりそれまでの国王を讃える歌から変更された。

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バルカン半島における2つの国のうち、最初に南米に到達しながらスペインにそのほとんどを持って行かれた国のほうことポルトガルです。
南米でポルトガル語が公用語になっているのはブラジルのみで、ほかはスペイン語。
つまりスペインがブラジル以外のすべての南米を植民地にしてたってことですね。

日本とも非常に結びつきが強く、いわゆる「南蛮」というのは主にポルトガル(のちにスペインも)のことを指します。火縄銃もポルトガルのものが原型となっていたり、カステラはポルトガルの南蛮菓子を元に開発されていたりと、身近な国ですね。
なお、フランシスコ・ザビエルはポルトガル国王の依頼で、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師として有名ですが、彼自身はスペインの生まれだったりします。

La Marseillaise / フランス共和国国歌「ラ・マルセイエーズ」



この歌は、フランス革命政府によるオーストリアへの宣戦布告の知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、当地に駐屯していた工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したものである。

このとき付けられたタイトルは『ライン軍のための軍歌』 (Chant de guerre pour l'armée du Rhin) であった。リール大尉はこの曲を当時のライン方面軍司令官ニコラ・リュクネール元帥に献呈した。なお、現在7節あるうちの最後の節(「子供の歌」)は同年10月に付け加えられ、ジャン=バティスト・デュボワ、マリー=ジョゼフ・シェニエ、デュボワ神父の作だと言われている。
その後、テュイルリー宮襲撃の際、パリ入城を果たしたマルセイユ義勇軍によって歌われたのをきっかけとして、現在の『ラ・マルセイエーズ』という名前になり、さらに1795年7月14日には国歌となった。

第一帝政から王政復古にかけては、「暴君(専制君主)を倒せ」という内容であるために禁止されていたが、1830年の7月革命以降は晴れて解禁となり、第三共和制下で再び国歌に制定され、同年にベルリオーズが独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲を施した。第四共和政の「1946年憲法」、第五共和政の「1958年憲法」いずれにも『ラ・マルセイエーズ』を国歌として定める旨が明記されている。作曲からちょうど200年目の1992年のアルベールビルオリンピックの開会式では、一人の少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を無伴奏で歌うという演出がなされた。

いたいけな少女の口から「聞こえるか?戦場で獰猛な兵士の怒号が。奴らは来る、 汝らの元に、喉を掻ききるため 汝らの子の」などと歌う光景はフランス人に衝撃を与え、国歌を変えようという議論が生まれるきっかけとなった。このように現在の国歌についてフランス国内では、歌詞または歌そのものを作り直そうという動きがたびたびあった。これは歌詞が子供に歌わせるには過激であり、また欧州統合の動きが進む現代に周辺国への敵意まるだしの歌を残すのは不適当という意見からのものであるが、けっきょく変更には至っていない。

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有名なメロディですが、歌詞は過激そのもの。
1番の歌詞でこれですよ。

1番
進め 祖国の子らよ
栄光の時が来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
獰猛な兵士の怒号が
奴らは来る 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの子の
コーラス
市民らよ 武器を取れ
軍隊を 組織せよ
進め! 進め!
敵の汚れた血で
田畑を満たすまで
市民らよ 武器を取れ
軍隊を 組織せよ
進め! 進め!
敵の汚れた血で
田畑を満たすまで


ジオン公国だってここまでではあるまいという過激さ。
アルベールビルオリンピックの開会式ではこれを少女が朗々と歌い上げるという。
芦田愛菜ちゃんがこれを歌ってるところを想像してごらんなさい。

2012年4月19日木曜日

Marcha Real / スペイン王国国歌「国王行進曲」



国王行進曲(こくおうこうしんきょく、スペイン語: Marcha Real)は、スペインの国歌および王室歌。音訳はマルチャ・レアル。歌詞の無い国歌の一つ。

スペインの国歌はヨーロッパ最古の国歌の一つで、その起源は不明である。
その最初の記録は、1761年にマヌエル・デ・エスピノーサ(Manuel de Espinosa)が書いた『スペイン歩兵の信号ラッパの命令の本』(Libro de Ordenanza de los toques militares de la Infantería Española)に登場する。曲は「擲弾兵行進曲」(La Marcha Granadera)と題され、作曲者は不明である。1770年にカルロス3世はこの曲を公式な「名誉の行進曲」とし、それにより公式行事や儀式といった演奏の場が与えられることになった。王室が来臨している公式行事で常に演奏されたため、スペインの民衆はすぐにこの曲を国歌とみなすようになり、「国王行進曲」と呼ぶようになった。
スペイン第一共和政とスペイン第二共和政では「リエゴ賛歌」が「国王行進曲」にとって替わって国歌となった。しかし、スペイン内戦の終結の際に、フランコが「国王行進曲」を旧名の「擲弾兵行進曲」に改めた上でふたたび国歌に戻した。スペイン1978年憲法の制定後の国王行進曲はフランシスコ・グラウ(Francisco Grau)に委任されたものである。1997年の10月に王室令は国歌としての「国王行進曲」の公的な使用の慣例化を公布した。

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もっともよく聞く機会があるのはやはりサッカーでしょうか。
F1ではフェルナンド・アロンソが2012年第2戦マレーシアGPで勝利を収め、この曲が流れています。

Youtubeでも多くは加湿器、もとい歌詞つきのもので、曲のみのものは少数派でした。
それにしてもテンポ指定ってないんですかね、国歌って。
かなりまちまちで、どれが正しいのやら。

2012年4月18日水曜日

Fratelli d'Italia / イタリア共和国国家「イタリアの兄弟」



マメーリの賛歌(マメーリのさんか、Inno di Mameli)、あるいはイタリア人達の唱歌(イタリアじんたちのしょうか、Il Canto degli Italiani)は、イタリア共和国(1946年~現在)の国歌である。イタリアの同胞もしくはイタリアの兄弟 (Fratelli d'Italia) とも称される。

歌詞はゴッフレード・マメーリ (Goffredo Mameli, 1827年~1849年) によって作詞され、曲はミケーレ・ノヴァーロ (Michele Novaro) によって作曲され、ジュゼッペ・ヴェルディによって編曲された。作詞者にちなみこの名で通称される。1946年6月12日のイタリア共和国成立後、約60年にわたり国歌は法で決められていなかったが、2005年12月に法律で国歌と定められた。1946年、サヴォイア王朝の廃止と共和制への移行に伴い、それまで用いられていたジュゼッペ・ガベッティ (Giuseppe Gabetti) 作曲の「王室行進曲」 (Marcia Reale) に代わってイタリア国歌となった。

2012年4月4日水曜日

Das Lied der Deutschen / ドイツ連邦共和国国歌



『ドイツの歌』(ドイツ語: Deutschlandlied)または『ドイツ人の歌』(Das Lied der Deutschen)は、ドイツ連邦共和国の国歌。
この歌は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1797年に神聖ローマ皇帝フランツ2世に捧げた「神よ、皇帝フランツを守り給え」(後に弦楽四重奏曲『皇帝』第2楽章の主題に用いられる)のメロディーに、1841年にアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(August Heinrich Hoffmann von Fallersleben)がヘルゴラント島で詠んだ詩を付けたものである。なお、同じメロディーはオーストリア=ハンガリー帝国でも国歌として使用されていた(こちらの方が皇帝ともども元の「神よ、皇帝フランツを守り給え」を引き継いでいる)。
ヴァイマル共和国時代に正式に国歌として採用されたが、第二次世界大戦敗戦による連合軍のドイツ占領を経て1949年に西ドイツに西側諸国の承認を得て設立されたドイツ連邦共和国では3番のみを公式なものとしており、1990年にドイツ民主共和国を統合した後も3番のみを公式なものとしている。


歌詞MP3ダウンロード

F1ファンなら、ミハエル・シューマッハ時代とセバスチャン・ベッテル時代にしょっちゅう聞いている曲ですね。